柿木村は自給を基本にした
田舎の豊かな暮らしをめざします。
合併前の旧柿木村では日本の高度経済成長に伴って、大量の人口流出が続き急速な過疎化が深刻な問題になっていました。そこに第一次オイルショックが重なったことで、私たちは「自給を優先した食べものづくりこそ山村の豊かさではないか」と気づき、村を挙げて有機農業に取り組むことを決意しました。
もちろん当初は、村内でも自給運動はなかなか理解されず、そのなかで山口県有機農業研究会に加入し、消費者と学習・交流活動を続けていました。そしてある時、山口県岩国市の消費者グループと運命的に出合います。「農家が自給する、安心できる農作物を分けてほしい」という依頼でした。そこで村の農業後継者と当時の農協婦人部が中心になって「柿木村有機農業研究会」を15名で発足。柿木村の有機農業への本格的な取り組みが、ようやくスタートしました。
そして有機農業が、村の施策として村民に浸透したのは90年代。村で立案されていた『柿木村総合振興計画』のなかで、まちづくりの指針について調査依頼していた島根大学から、柿木村有機農業研究会が進める「健康な暮らしと環境を守る活動こそ、これからの村づくりの中核にすべき」との報告があり、ここから官民一体となった「健康と有機農業の里づくり」をめざすことになりました。
それまで村内の有機農産物の生産、流通は柿木村有機農業研究会が担っていましたが、振興計画では有機農産物の流通組織の重要性が指摘されていたため、柿木農協と取り扱いの協議を開始しました。しかし、小さな農協組織では対応が難しいことがわかり、その実施主体として立ち上げたのが第三セクター「エポックかきのきむら」です。
ところがその後、柿木農協が合併。その合併農協から有機農産物の生産・流通を任せてほしいという要請があり、エポックかきのきむらは事業を譲渡。有機農産物の生産・流通は新しい農協が担うことになり、有機農産物流通センターが設置されました。しかし、農協はさらに西いわみ農協へと経営の合理化が進められ、ついに柿木村に有機農業担当職員がいなくなります。これでは地域に密着した営農や生活指導、流通について今後に期待することは難しいと判断し、約1年をかけて生産組織の再編について有機農業関係者と協議。2014年に柿木村の未来の一翼を担う「食と農・かきのきむら企業組合」を設立しました。
柿木村の有機農業のあゆみ
- 1975年
- 旧柿木村の青年有志が山口県有機農業研究会に加入。自給運動をスタート
- 1980年
- 有機農業を考える会の発起人会を開催。岩国市『新土の会』と産直提携スタート
- 1981年
- 柿木村有機農業研究会(柿有研)設立。『徳山市消費者協会(のち『土と健康の会』)』と産直提携スタート
- 1983年
- 柿有研、益田市『大地の会』と産直提携スタート。柿木村生活改善グループ連合会、益田市学校給食センターに味噌を供給
- 1986年
- 柿木村農産加工場が竣工し、柿木村農産加工組合を設立
- 1987年
- みのり共同購入会(のちグリーンコープ生協)へ米、野菜を供給開始
- 1991年
- 柿木村総合振興計画で『健康と有機農業の里づくり』を宣言
- 1992年
- 柿有研有機生産部会、グリーンコープ生協へ供給開始
- 1993年
- 第三セクター(株)エポックかきのきむら設立
- 1994年
- グリーンコープ生協連合へ有機農産物を供給
- 1995年
- 有機農産物流通センターが業務開始。有機米の会(のち柿木村有機米研究会)設立
- 1996年
- 柿木村有機野菜組合設立
- 1997年
- 道の駅かきのきむら開業
- 2003年
- 柿木村産直協議会設立。廿日市市宮内に柿木村アンテナショップをオープン。(株)エポックかきのきむらが経営を担う
- 2004年
- 生産組織のかきのきむらグループ設立
- 2005年
- 柿木村が六日市町と町村合併。吉賀町が発足
- 2008年
- 吉賀町、有機農業推進事業のモデルタウン指定
- 2014年
- 農産物の生産から流通までを取り扱う団体として、食と農・かきのきむら企業組合を設立
- 2019年
- 食と農・かきのきむら、吉賀町アンテナショップ『かきのき村』を(株)エポックかきのきむらから事業継承し運営に着手

柿木村有機農業研究会のみなさん
柿木村有機野菜組合のみなさん
かきのきむらグループのみなさん
MESSAGE
柿木村応援メッセージ

島根大学名誉教授
「人生100年時代」の到来。いつまでも健康で楽しく暮らしたいと思っている。しかし、最新の政府報告によると、死因の第1位は癌など悪性腫瘍、第2位は心疾患(心臓・脳・血管の疾病)、第3位の老衰より多い。そこには食べ物事情がある。我が国は高度経済成長期以降、農業と工業との所得格差是正のために、化学肥料,農薬,除草剤等を大量に使い、大規模化を進めてきた。その結果が健康障害である。
これと違う道を選んだのが、「かきのきむら」(現・吉賀町柿木地区)の「健康と有機農業の里」づくり。農家自らの健康を維持するために有機農業を展開し、農家自給と同じ安全な米・野菜等を消費者に販売することにしたのである。その拠点が「食と農・かきのきむら企業組合」とそのアンテナショップである。
「食と農・かきのきむら企業組合」の今後に期待したいことがある。第1に、地域面積の92%を占める森林を活かした木質バイオによる地域エネルギー自立、第2に清らかな水源を活かした薬木・薬草の栽培・加工である。これらは、「健康と有機農業の里」のイメージをさらに高めることになるだろう。第3に、アンテナショップの消費者をはじめとする都市住民を対象とした「準村民」制度の新設。および準村民たちの“安らぎと憩いの家”の開設である。資金集めには、クラウドファンディングが考えられる。
このような新しい発展策により、農家も消費者も健康で楽しく暮らせる未来を期待したい。

兵庫農漁村社会研究所代表
1981年(昭和56年)1月、旧柿木村に有機農業研究会と言う風変りな研究会が誕生した。あれから、この1月で丁度40年になる。1970年(昭和45年)10月に母乳から農薬が検出され、翌年、国は全国の母乳調査を行い、すべての地域の若い母親の母乳が農薬に汚染されていることが判明し、大きな社会問題となった。この母乳の農薬汚染がきっかけで、1971年10月に東京で日本有機農業研究会が誕生し、以後、燎原の炎のように、有機農業運動が全国に展開し、やがて、10年後に中国山地の一角にも有機農業の取り組みが始まるのであった。すでに京阪神では有機農業の取り組みが進みつつあり、柿木村のメンバーと連帯を深めるべく何度なく高津川のほとりで交流会が持たれたのも、懐かしい思い出である。以来、日本の有機農業運動は50年の節目を迎え、かきのきの運動は40年の歴史を重ねることになった。参加メンバーも年齢を重ね、あるいは世代交代が進んできたが、運動の炎は消えることなく輝き続け、さらにかきのきの運動は輪を広げようと新たな取り組みを始めたところである。母乳の農薬汚染はあまり意識されなくなったが、ネオニコチノイド系農薬という新しい農薬の影響が論じられる時代となった。まだまだ有機農業は広まり、人々の食卓を安全なものにしていかねばならない。かきのきの有機農業運動40周年をお祝いするとともに、さらなる活動の輪が広がることを心から期待するものである。

食政策センター・ビジョン21
戦後の農薬多使用によってミツバチを始め多くの生物が姿を消し、ついに地球規模の昆虫大消失という事態が報告されるまでになっています。農薬の害は人類に及び、近年人体への影響、特に子どもたちの神経疾患の増大との関連が知られるようになりました。今、EUをはじめ国際的に脱農薬・有機農業への転換が大きな潮流となっています。
一方日本はいまだ農薬大国のままです。柿木村はずっと早くから村の施策として有機農業を推進する先進的自治体として有名でした。私が柿木村を最初に訪問した時、有機農業を推進する村職員だった福原圧史さんが案内して下さり、柿木村に流れる空気に魅了されました。高津川が日本で一番の清流と言われるのは有機農業の地であるからでしょう。
幸せを感じる豊かな自然環境と安全な食べ物で自給できるふるさと!これに勝るものはありません。
日本の未来を拓くのは有機自給国家となることです。それには日本中にたくさんの柿木村が生まれることだと確信します。

西日本新聞記者
「医は食に、食は農に、農は自然に学べ」。熊本県菊池市で、公立菊池養生園診療所の所長をしながら、鍬を持ち、有機農業を行っていた内科医、竹熊宜孝先生の言葉です。
医者がどんなに頑張っても、食および食習慣が悪ければ、病気は治らない。ではその食が何から生み出されるかといえば、それは健全な農から。健全な農は、きれいな土、水、空気があってはじめて成り立つ。つまり、医、食、農、自然(環境)は、バラバラに考えるのではなく、一体的に考えようという意味だと、私はとらえています。
有機農業は決して、安全な食べ物をいただくだけの取り組みではない。食卓の向こう側にある人々の営みが見えるような社会、価値観をいかにして醸成していくか。
「生産者は消費者の健康を守り、消費者は生産者の健康を守る」。長年、柿の木村の皆さんが、額に汗してこしらえた農産物を介して交流されている皆さんの取り組みを、心から応援しています。

島根大学生物資源科学部学生
「農に生きる」
柿木村の石碑に書かれているこの言葉が、いつも心に沁みます。
農とは田畑を耕して作物を育てることをいいますが、時代の変化はその営みを産業として位置付けてきました。効率や生産性の向上を目指したことは、一方で心を籠めること、時間をかけることを困難にさせてきたように感じます。その中において柿木村は、営利を目的とするのではなく、暮らしを豊かにすることを農の根幹に据えてきました。その農が持つ意味は、「人や自然と共に生きる」ということなのだと思います。健やかな人と豊かな自然を想うという美しい心です。この先人の精神は柿木村の有機農業の土台となって、現代にも受け継がれています。
有機農業に取り組んできた40年間、大きく変化する時代の波に打たれながらも、地道に、そしてひたむきに人と自然と共に生きてきた。それが「農に生きる」生き方であったのではないでしょうか。厳しい時代の中で、柿木村の有機農業が人間らしく生き伸びていく一筋の光であり続けることを祈っています。